六月のお念仏の会   第338回

亀は万年

これは落語にある話です。ある縁日の露店で、おじさんが亀を売っていました。そこを通りかかった子供に、「坊や、この亀は長生きするよ。昔から、”鶴は千年、亀は万年”と言って、亀は長生きするんだよ」とおじさんは言いました。「そんなに長生きするなら、一匹ちょうだい」と言って買って行きました。次の朝亀は死んでいました。その子は死んだ亀を持って露店に行き、「おじさん、亀は長生きするっていうから昨日買ったけれど、もう死んじゃったよ」と不満げに言いました。おじさんは「きっと昨日が一万年目だったんだよ」と。
人間というのは、ある物事に対して、自分の思いで判断を下す、自分のいいように理解する、自分中心に考えてしまいます。冷静にそして広い角度から見つめなければいけないと思います。

五月のお念仏の会   第337回

今回はぼたん祭りの中でのお念仏の会でした。大変大勢の方が参加くださいました。ほとんどの方が初参加ということでしたので、以前にお話しした中から、私が最も好きな話の中の一つを『お念仏のすすめ』としてお話ししました。
お念仏のすすめ
 ある人が、これまでの自分の一生を振り返る夢を見ました。砂浜に、二組の足跡が並んで続いていました。この人は、仕事も私生活も順調で、お墓まいりも良くし、菩提寺の行事にも必ず参加する大変熱心な信者さんでした。常に仏様と生活を共にしている厚い信仰を持った人でした。だからこの二組の足跡が自分と仏様のものだとすぐにわかりました。しかし、ある時からこの人は仕事がうまくいかなくなり、さらに家庭内もぎくしゃくしはじめました。そしてあれだけ信仰熱心だったのに、お寺にも全く行かなくなってしまいました。ちょうどこの頃です。二組あった足跡が一組になってしまったのは。
 この話を聞いた時、誰もが、この一組になってしまった足跡は、絶望に打ちひしがれて一人ぼっちで歩くその人自身の足跡だと思ったのではないでしょうか。ところがそうではなかったのです。話は次のようの続いています。阿弥陀様は”日頃から南無阿弥陀仏と私の名を唱えている信仰心の篤いお前のそばを離れたことはない。お前が一番苦しんでいた時、砂の上に一組の足跡しかなかったのは、絶望で歩けなくなったお前を私が背負って歩いていたからなのだよ”とおっしゃいました。
その人はハッと気付きました。あの一組になった足跡は自分のものではなく、阿弥陀様の足跡だったことに。

四月のお念仏の会   第336回

花まつり
花まつりとは、四月八日のお釈迦様のお誕生をお祝いするお祭りです。
お釈迦様生茶をかける理由
お釈迦様がお生まれになった時、天から2匹の龍が現れ、甘露の雨を降らせてそのお誕生をお祝いしたという言い伝えがあります。”甘露の雨”に因んで甘茶をかける習慣が生まれました。この甘茶の素は漢方薬で、大変甘いのですが、あまり美味しいとは言えません。せっかくのお祝いなのですから、もっと美味しいものを差し上げたいと考え、仲台寺では美味しい台湾の烏龍茶を使うようになりました。
さて、お釈迦様と言えば、お生まれになってすぐ7歩歩み『天上天下唯我独尊』とおっしゃったと言われております。これを見て、お釈迦様というのはずいぶん傲慢な方だなあと思われた方もいらっしゃったのではないかと思います。この意味は、お釈迦様自分一人が尊いというのではなく、あらゆる人の一人一人の自分が尊いという意味です。それぞれが授かった命の尊さを述べているのです。花まつりを通して命の大切さとそれを慈しむ心についてもう一度考えてみたいものです。

三月のお念仏の会   第335回

  健康十訓
一、小肉多菜
二、少塩多酢
三、少糖多果
四、少食多噛
五、少衣多浴
六、少車多歩
七、少言多行
八、少煩多眠
九、少憤多笑
十、少欲多施

これは私の知り合いのあるお寺のご住職が、数十年にわたって発行してきた寺報を一冊の本にしてこのたび出版したものの中に書かれているものです。その中に、お棚経でうかがったお年寄りの方から頂いたものだそうです。
素晴らしい臨終を迎えるためにはまず、健康でいなくてはなりません。そのためにもこの十訓はとても参考になると思います。更に、十一番目に、少談多念を加えれば、阿弥陀様が間違いなくお浄土に連れて行ってくれるはずです。日々お念仏を唱えながら、健康な生活を目指したいものです。

二月のお念仏の会   第334回

村祭り
ある山村では秋の収穫が終わると、毎年収穫を祝ってお祭りが開催されます。その祭りの冒頭に行われるのが酒樽の鏡開きです。ところが、ある年は大変な不作に見舞われ、村には酒樽を買うお金がありませんでした。そこで村長さんは考えました。”空の酒樽はあるのだから、村中の家から、一軒につきコップ一杯のお酒を寄付してもらい、そのお酒を樽に入れればなんとかなるのではないか”と。案の定、空の酒樽はいっぱいになりました。樽に蓋をし、鏡開きの準備ができました。例年のごとく村長さん達によって鏡が開かれ、祭りが始まりました。ところが、酒を飲んだ村人達が怪訝そうな顔をしているのです。村長さんはどうしたのだろうと、お酒を飲んでみたら、それは水だったという話です。
それは、”自分一人くらい酒の替わりに水を入れてもわからないだろう”と村人全員が考え、実行したからです。この話は笑い話のようにも聞こえますが、人間本来が持っている甘えや自分に都合よく考えてしまう性格というものをよく表していると思います。”ちょっとだけだからとか誰も見ていないから”という考え方を捨て、自分は、良くない事、間違った事は絶対にしないんだという強い信念を持って生活する事が大切だと思います。

一月のお念仏の会   第333回

ボケたらあかん長生きしなはれ!
1、年をとったら出しゃばらず、憎まれ口に泣き言に、人の陰口愚痴言わず、他人の事は褒めなはれ、聞かれりゃ教えててあげてでも、知ってることでも知らんふり、いつでもアホでいるこっちゃ。
2、勝ったらあかん負けなはれ、いずれお世話になる身なら、若い者には花持たせ、一歩下がって譲るのが円満にいくコツですわ、いつも感謝を忘れずに、どんな時にもへいおおきに。
3、お金の欲を捨てなはれ、なんぼゼニカネあっても、死んだら持っていけまへん、あの人はええ人やった、そない人から言われるように、生きているうちにばらまいて、山ほど徳を積みなはれ。
4、というのはそりゃ表向き、ほんまは銭を離さずに、死ぬまで持っていなはれ、人にケチやと言われても、お金があるから大事にし、みんなベンチャラ言ってくる、内緒だけどほんまだす。
5、昔のことは皆忘れ、自慢話はしなはんな、わしらの時代はもう過ぎた、なんぼ頑張り力んでも、体が言うこと聞きまへん、あんたは偉いわしゃあかん、そんな気持ちでおりなはれ。
6、我が子に孫に世間様、どなたからでも慕われる、ええ年寄りになりなはれ、ボケたらあかんそのために、頭の洗濯生きがいに、何かひとつの趣味持って、せいぜい長生きしなはれや。

この詩は、浜松の住吉長寿会の『長生き心得』というものだそうです。ある方が書かれた本に載っていたので、転記させていただきました。
皆さんもこの歌のような生活を実践し、さらには”頭も体も共に元気でいられるようにお念仏に励み”自らの尊厳が失われないうちに阿弥陀様のお迎えをいただきたいものです。

十二月のお念仏の会   332回

消費社会の現代では『もったいない』という言葉はあまり重くは考えられていないようです。しかし、お釈迦様は『もったいない』という事を次のように説かれています。”世の中にはひとつとして『自分のもの』というものはない。すべてはみな、ただ大きなはたらきによって自分にきたものであり、しばらく預かっているだけでのことである。だからひとつたりとも粗末にしてはならない”と。
阿難尊者が、五百着の衣を喜捨されました。
「あなたは五百着の衣を一度に貰い受けてどうしますか?」
「多くのお坊さんは破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか?」
「破れた衣で敷布を作ります。」
「古い敷布は?」
「枕の袋に」
「古い枕の袋は?」
「床の敷物に使います」
「古い敷物は?」
「足拭きを作ります」
「古い足拭きはどうしますか?」
「雑巾にします」
「古い雑巾は?」
「粉々にして、泥を混ぜ合わせ、家を尽きる時の壁の中に入れます」
今の社会に於いてはとても考えられない話ですが、ただ、『すべてのものは預かりもの』という考え方を大いに尊重し、物を大切にする習慣を身につけたいものです。